閉鎖空間①

過去のことは話さない。話したくない。思い出したくない。思い出せるようなところにしまってはいない。
そんなことは調べればすぐにわかる。ならばわざわざ不幸自慢をするように、話すべきことではないだろう。話したところで何がわかる。わかった気になって、慈悲深いフリをして、俺の弱みにつけ込んでくる。そういうやつは、大嫌いだ。俺を捻じ曲げるやつも、力でなんとかしようってのも。だから陽は嫌いだ。俺を捻じ曲げ、抵抗出来ないと知りながら、軟弱な力で封じる。でも、そう、一番嫌いなのは、暴力と、暴力を振るうやつ。けれど、俺はそれに逆らえない。逆らってはいけない。もっと恐ろしいものが来るから。俺をめちゃくちゃにしてしまう、俺をなにか別のものに変えてしまうものがある。例えば、そう、俺が暴力に対して抵抗出来ないようになってしまったこと。それと、父親に似た背格好の男を見ると、足がすくんで動けなくなること。俺の罪は、そんな男の子供として生まれたこと。父親の罪は、そんなふうに俺を変えてしまったこと。ただあくびをしただけで殴られる。腹が鳴れば怒鳴られる。到底飯とは言えないものを食べられなかった時なんかは、そりゃあもうひどいもので、幾日も口に出来るものを得られなかった。だが、悪いのは俺だ。罪は一つでも、悪行は全て俺にある。全部が気に入らなかったんだろう。俺は、……俺は、本当は許されたかった。
──と、彼は……ヰサラは、煉河友夜は、屋敷に引き取られてすぐ、離れの封じられた部屋に懺悔していた。……なんてな。

俺はごくごく普通の家庭に生まれた。何が悪かったわけでもない。俺が悪かったわけでも、結夜が悪かったわけでもない。だだ、両親の絆に亀裂が入っていた。悪かったのは、恐らくそれだけだろう。母親は結夜ばかりを贔屓する。可愛い洋服を着せる。市販で気に入るものがなければ一から作る。栄養バランスの整った食事を与える。勿論デザートまで忘れない。伸ばした髪を毎日丁寧にケアする。清潔なベッドで絵本を読み聞かせながら星の夢を見て眠る。もはや母親の目に、俺と父親は映っていなかった。何度も幼稚園からの電話が鳴り響く。友夜くんはお休みですか。お元気ですか。様子はどうですか。明日は来られそうですか。何度も何度も母親は電話に怒鳴りつける。私には結夜だけです。忌々しいその名を呼ばないで。私に電話をかけないで。汚物と暴力に塗れた2階。きらびやかでかわいらしい空間の広がる1階。何が違ったのか。子を想う心が違った。
結夜と母親が二度と戻らない外出をする当日。なんの機嫌を損ねたか。俺は湯船に頭を突っ込まれ、押さえつけられていた。一瞬頭をあげた時、俺をみていた結夜の顔は忘れない。純真無垢で清廉潔白。同じ顔とは思えない。心配そうに覗き見る可愛い洋服。その手には、もう何日も顔を見ていない母親のお気に入りの髪留めが握られていた。なんて目で見てしまったんだと俺は後悔している。浴槽を蹴ると足を抓られた。苦しいともがけば何度も罵声を浴びせられた。どうしてこの男は俺にこんなことをするのかなんてわかるわけがなかった。ただ俺が悪いんだろうなとは思った。玄関のドアの閉まる音が微かに聞こえた気がした。……それからどのくらい時間が経ったのかわからない。気が済んだのか父親は俺の頭を押さえるのをやめ、濡れた服を着替えてどこかへ出かけていった。ぼとぼとになった服を脱ぎ、ぎゅっと絞って広げて椅子の背にかける。適当に生乾きのにおいがする服に着替える。父親が使ったあとのタオルで頭を拭いて、冷蔵庫を開ける。……何も入っていない。いや嘘だ。入ってはいる。入ってはいるが、おそよ俺の食う物はなかった。父親の好きなソーセージとビール。惣菜が少し。ここ数日、ろくにものを食ってない。もはや腹が減ってるのかどうかすらわからない。

病院②

そうそう。真っ暗になって、あまり何があったかは覚えていないわ。そうね、でも夢の中でお母さんが大事なことは教えてくれた。きっと夢でなくても教えてくれていたのでしょうね。お勉強は教えてくれなかったけど、活きる上で当たり前のことなんかは、しっかり教え込んでいったわ。それから、誰かが来る気配なんかも、私にはわかった。これは看護師さん。これはお医者さん。カーテルを運んで、腕の点滴を差し換えているの。それから心電図と、あとは……あと、たくさん何かをいじって、この部屋を出ていったわ。それが毎日。そうね、気になるわよね。私が目を覚ました時のこと。友夜が、私に話しかけてきたのよ。「結夜、今すぐ僕に会いにおいで。」って。えぇ、私、目を開けたわ。目を開けられたの。病院の衣服を脱いで、適当なロッカーを開けたわ。黒いセーラー服が一着入っていて、確か近くの中学校の制服だったわ。お母さんは私を女の子にしたかったのよ。女の子が欲しかったの。だから、髪は毎日手入れされていて、目の上で前髪は切りそろえてあって、切らずに伸ばされた後ろ髪も綺麗なままだったわ。えぇ、お母さんはもう私のところにはこない。好きな人ができたのよ、きっと。けれどそれでよかったわ。目を覚ました時、もしお母さんがいたら、私は友夜のところには行けなかった。黒いセーラー服に袖を通して、あまりにもピッタリだったから、少し驚いたわ。でもそんな暇なんてなくて、一緒においてあった革靴を履いて、友夜を探したわ。どうやってササメちゃんのお屋敷に辿り着いたか?……わからないわよそんなの。気付いたら、そこにいたもの。どうやって探したのかもわからないわ。それでも、友夜のことを見つけられた。……イイエ、正確には、友夜の顔をしたヰサラを見つけたわ。あの日私を睨んだ目は優しさに満ちていた。あの日湯船に沈められていた髪は目に痛々しいような色に変わっていた。あの日浴槽を蹴り飛ばした細い足は男の子の足になっていた。すべてが変わっていたのよ。私の知っている友夜は、きっとお父さんに殺された。私の知らないヰサラが、そこにはいたの。少しね、少しだけ許せなかったわ。私の友夜はどこへいったの。私を許さないと睨んだ黄色い目はどこへいったの。お父さん、あなたは友夜に何をしたの。──今ではすべてが過去のことよ。私はもう、煉河結夜を捨てた。ヱリーゼと名乗ったの。だって、煉河結夜は夢の中で死んだもの。死体の名を語ったって、誰も喜びはしないわ。ヰサラの中の友夜が死んだのなら、私は僕を殺す。それが私のあるべき姿。そうであると、私は信じているのよ。

病院①

お母さんとマトモな会話をしたこと。友夜の顔を見たこと。最後の28分前が、私の記憶に残っている出来事だった。私とお母さんは出掛けると言い、友夜とお父さんに声を掛けた。誰からの返事はなかったが、ただ一つ、水を叩き浴槽を蹴る音が、廊下の奥にあるお風呂場から聞こえてきただけであった。私は忘れ物をしたとウソをついて洗面所へ向かい、お母さんのお気に入りの髪留めをポケットに忍ばせ、お風呂場を覗き見た。冷たい視線を浴槽に向け、右手は──友夜の頭を押さえつけている。苦しそうにもがき、ガンガンと浴槽を蹴る足を左手が抓る。「あぁ痛そう。苦しそう。僕がかわってあげたい。けれどお母さんが待っている。ごめんね友夜、いつか友夜を救ってあげるから。」一瞬だけ頭を上げ、私の目を見た友夜の顔は忘れない。いいえ、きっと忘れられない。ごめんなさい。私、今でもお父さんのことは止められないわ。だって、お母さんが待っているもの。携帯を見て待つのでもなく、ただ洗面所へ向かっていった私の方をずっと見ていたもの。あぁ、お母さんとお父さんは、急に仲が悪くなって、私と友夜も引き離された。私たちは一緒でなきゃいけないのに。二人で一つなのに。私は友夜がいればそれでよかった。きっとお母さんとお父さんも、お互いがいれば幸せなんだと思っていたの。本当よ。どうして仲が悪くなったのかは、大きくなった今ならわかるわ。だってお父さんったら、知らない女の人の匂いを纏っていたもの。きっとその人が原因よ。その人さえいなければ、私と友夜は一緒にいられたのに。いいえ、今更こんなことを言っても仕方ないわ。そして私は、友夜にも、お父さんにも、……誰にも何も言えずに、お母さんに手を引かれて玄関を出た。「いってきます。」って、ちゃんと言ったのよ。ええ、私たちの家は大通りに面していて、日夜交通の騒音が絶えなかった。大きなトラックも走っていたし、自転車もたくさん通ったわ。忘れもしない乗用車の運転手。古い車よ、白色のセルシオなんて。ここでは珍しい福岡554め4267。なぜだか鮮明に思い出せるわ。お昼なのに疲れた顔をして、ボーダーのワイシャツを着ていて、臙脂色のネクタイを雑に緩めていて、短く切りそろえた髪はボサボサだった。ボーっとしていたのでしょうね。青信号を渡る私たちを見た瞬間、どっと汗が噴き出るのがわかったわ。それからタイヤと地面が擦れるゴムくさい匂いと、ハンドブレーキも引いたのでしょう。急カーブを曲がるような鋭い音が耳を支配したわ。「テレビドラマと全然音が違う。」なんて思っていたのよ、私。マヌケでしょう?笑ってちょうだい。そんなことを思う時間があれば、お母さんを突き飛ばすくらい出来たでしょうに。えぇ、結果として私はその乗用車に轢かれた。死にはしなかったわ。だって今、ここにいて、生きているもの。でもそうね。乗用車はギリギリでお母さんを避けれたけれど、私のことまでは避けられなかった。「この車、僕に当たる。」って確信して、どこに当たったのかは、そこまで意識を保てなかったわ。目の前が真っ暗になって、思うように動けなかった。──少し休憩、お茶でもしましょう。こんな話、休みながらでないと出来やしないわ。

保護施設④

恢と会ってから半年が経った。桜が咲き小学生が増えた。それと変わらず、恢の部屋の死体が増えた。俺が殺したヒトの数も増えた。さすがに不自然すぎるなと思ったが、いずれバレるのなら。100人殺せば英雄と。なら、やりたいだけやればいい。恢から聞いた言葉だ。欲しいだけ殺せばいい。バレる前に出来るだけやっておく。心残りがないように。バレて捕まれば、思うように思うヤツを殺せなくなる。とんでもないストレスだ。考えただけで頭がおかしくなりそうだ。ヒトの死をこの手に感じられない。細い割に硬い脊椎を折る振動が伝わらない。震える弱い抵抗が皆無。そんなコトは耐えられない。耐えられるワケがない。
「おい紫苑。聞いてるか?」
「……え?なに?」
「俺の話ちゃんと聞いとけよぉ。カード、負けたら関西弁なって言っただろ。」
「あ、そうだったっけ。」
ウン?と手札を見る。いや俺がポーカーで負けるかぁ。負けないと思ってたんだけどなぁ。
恢とは何回もポーカーで遊んでる。その度に負ける。今まで強い人ともやったのに、負けたことは1度もなかった。恢はイカサマしてるワケじゃない。単純に俺が弱いワケでもない。なのになぜ負けるのか。恢の引きがいいってワケでもない。とんでもなく弱いカードの時もあるのに、俺がそれよりも弱いのだ。
「関西弁、なぁ……まぁ頑張ってみるかぁ。期限は?」
カードを回収し向きを揃えて箱に仕舞う。フーっとため息を吐いてイスにもたれかかる。恢の目が微妙に細く鋭く睨む。イスが倒れる程の勢いで机に身を乗り出し、俺の襟ぐりを掴んでグッと引き寄せた。
「一生。俺とあんたがサツに捕まって死ぬまで。俺とあんたは一生離れられない。運命共同体だ。俺がいなくなったとしても、あんたは俺から離れられない。俺のことを忘れられない。死が二人を分かつまで。」
人間かと。それすら怪しい。死体を集めるくらいだから、元々人間じゃねェなとは思っていた。カードを引くのも、死体が集まるのも、現状動けないのも、なるほど。有り得ない程のカリスマ性か。確かに、多分俺は恢から離れられないし、忘れはしないだろう。こんな人間の皮を被った悪魔のことは。いや、悪魔って言うより魔王か。魔王的カリスマ。
「……わかったから離せよ。」
「関西弁」
「わかんねぇよそんなん。俺知らない。」
「レクチャーしてやるよ関西弁。」
こいつのこの囁き。抗うことがそもそも許されない。逆らえば首を掻っ切られ、内臓を抉り取られることは間違いない。支配された方が幾分か楽、どころじゃないな。
恢の薄い胸板をゆっくり押し返す。なんだ、そもそも力が入ってないじゃん。成程これが根っからの支配者ってワケか。
「わかった。ちゃんと教えてくれよ、おにーさん。」
「その呼び方気に入った。これからはそう呼べよ。」
「ははっ。俺のが誕生日早いってのに。」

数日後、いつものように子供を殺した。南館302号室の大人しいガキ。その死体を肩に担いで、恢の部屋に向かっていた時。ドアを開ける間もなく、ドアの方が勝手に開いた。というか、恢がドアを開けた。風呂を出たばかりなのか髪が湿っている。支給されているシャンプーのにおいがする。それよりも、何より死臭がする。
「なんやおにーさんの方から開けてくれるん?」
「………入れ。話がある。」
「言われんでも入るんやけどなぁ。」
鍵を閉める。俺から死体を受け取り、つま先からつむじまで簡単に状態をチェックする。抱き返す温もりのない死体を、壊れないように優しく抱きしめる。俺が殺すヒトを定め、殺してから恢ところまで運ぶように。
「……そんで、話って?」
ドカリと広いソファーに座る。電気はついていない。カーテンを開けっ放しにしているから、よく晴れた月のあかりが射し込んでくる。
「施設長…より偉いヤツ。黒川っていう、……まぁとにかく管轄地では最高位の権力者。ってヤツがいるんだけど。そいつにバレた。あんたの殺しと俺の収集。」
「……死が二人を分かつまで。俺は恢のやるようにする。黒川ってのはナニか知らないし、別に興味もないけど。恢が殺されるとか捕まるってんなら俺もそうする。」
ソファーの背もたれに座る恢に背中合わせで返事をする。死が二人を分かつまで。死んでも俺は、恢に追従する。あの日の囁きから逃れられないと、逃れないと理解してしまった時から。
「殺されたり捕まったりはしないらしい。なんだ、屋敷に連れていくとかナンとか。まぁ、死ぬよりマシだなと思って承諾した。」
「賢明な判断どうも。死なないならソレに越したことはねぇよ。」
ソファーから立ち上がり、死臭のする短い廊下を抜けてドアの鍵を開ける。
「……そうだおにーさん。言い忘れてた。俺、多分、あんさんが死んだ後でも、あんさんの呪縛からは逃れられへんよ。」
それだけ言って後ろ手にドアを閉める。中からは乾いた笑いが少しだけ聞こえたが、多分、気のせいだろうな。

荷物は全部送ってしまった。手に持つものは何も無い。広いグラウンドで砂埃を巻き上げるヘリコプターの音が聞こえる。恢は先に靴を履いて待っている。
「おい紫苑、いくぞ。」
「ちょっと待ってや恢、まだ紐結べてへんねん。」
「どんくさいヤツだな。そんなん内側にでもしまっとけよ。」

保護施設③

俺と紫苑がタッグを組み、殺しては集めてを繰り返してから半年。もう桜が咲き始め、小学校に行くガキが増えた。相変わらず紫苑は気に入らないヤツや、何となく目に入ったヤツを殺してはその死体を俺に投げて寄越す。俺からすれば、探さずともほしいモノが手に入るから、困ったことなんか全く無い。東館201号室からひどい匂いがすると噂が立ち、このフロアはすべて空き部屋になった。フロアの住人はまだその部屋にいるが、人間らしい生活はしていない。ほとんど毎晩のように血のついた、あるいはヒトの体液の染みたオーダメーイドのシャツをバスタブに放り投げ、湯を張る。ざぶんと肩までつかれば湯気が舞う。月のあかりが射し込む6ツ切りの窓ガラスが曇る。深呼吸すると嗅ぎなれた死臭がカルキの匂いと共に鼻腔を通り抜ける。俺一人しかいない広い201号室に、望まないモノが足を踏み入れた。
「恢吠──恢吠夛崔だね。うん、ひどい匂いだ。よくこんな場所で湯船に浸かれるね。」
半分振り返り肩越しに姿を見る。黒髪の──男か。俺と同じくらいの歳だな。途中にある死体を避けながら俺の浸かるバスタブに近付き、ぷかぷか浮いているシャツを摘む。
「ウワ、ありとあらゆる液体が染み付いてる。これと風呂入っても体は清められないぞ。」
「……ご親切にドーモ。でもいいんだ、あとでシャワー浴びるから。今優越タイムなの。そんであんた、ナニ?誰?ここ俺の部屋なんですけどぉ。しかもバスタイムに来るって最悪じゃない?」
「あん?なんだ、私を知らないの。私の金で生かされてるのに、可哀想なヤツ。」
なんだ、傲慢なヤツ。ヘンなヤツ。なにしに来たんだ。あんたの金で生かされてる?冗談は入室時間だけにしとけってんだ。
「──黒川ササメだよ。」
「あぁ、なに、ここのコ?」
背中を向けたまま、窓の外を見ながら言うと、そいつは、黒川は湯桶を転がして遊び始めた。ソレで遊ぶってあんたいくつだよ。ソンなことしながら話す内容じゃないだろ。
「奇しくもハズレ。ココを管轄してる人間だよ。施設長よりもずっとずっと偉いの、私。ま、お前に話があってバスタイムにお邪魔しましたー。って感じ?」
「邪魔してんだってわかってるなら終わってからにしろよ。1日で唯一の時間なんだぞ。」
「ハイハイわかったよ。じゃあ本館の施設長室で待ってるから風呂から出たら来るように。すっぽかしたらぶっ殺すからね。」
ざぶん!と張った湯を舞い上げ、黒川はゲラゲラ笑いながらバスルームを出ていく。
「ゲホッ、ゲホ……クソッてめぇこの!さっさと出てけッ!」
威圧感のあった背中に罵倒し、ザァッと湯を撒き散らす。バスルームに鍵をかけ、バスタブの前にへたりこんでしまった。プカプカと浮かぶシャツに着いた血の色が薄くなっている気がした。
「……生きてる人間に風呂入ってるの見られるって、結構辛いモンがあるんだぜ。」
なんか目にしみる気がする。お湯、被ったからかな。

風呂から上がり、本館4階全てを使った施設長の部屋に来た。来てしまった。
「おい来てやったぞ。いるのか黒川、いるならさっさと出てきて話ってのをしろ。もう眠いんだ。」
あくびを噛み殺しながら叫び、だだっ広い部屋の中を1周見て、高そうなソファに体を投げやる。死臭がしない。なんの匂いもしない。俺の嗅覚がマヒしてんのか、それとも本当に無臭なのか。
「確かに来いって言ったのは私だけど、お前その態度はなんなの?ここで一番どころじゃなく偉い人間の前なんだけど?」
広いソファーを最大限使うべく、腕も足も頭も胴体も全部乗せ、もはや寝転がっている状態の俺に、黒川はピキピキと青筋を立てた笑顔でいる。おい、左手のコーヒーカップにヒビが入ってるぞ。
「そんなんはいいからさっさとしろ眠いんだ。」
いっそここで寝てしまおうかと思うくらい寝心地のいいソファーであくびを一つ。話があるって言うから来たのに、その用件を話さず遊ぶつもりなのかこの自称超偉いヒトは。
「……まぁいいわ。あのね、話ってのはね。」
テーブルを挟んで向かいのソファーに腰掛ける。右手に持っていた白いコピー用紙とヒビの入ったコーヒーカップをテーブルに起き、ドカンと足を乗せた。俺に言える態度じゃないだろ。
「1つ、お前の部屋の死体のこと。2つ、半年前から急に施設の子供の数が減っていること。」
パチンと黒川が指を鳴らすと、奥の方からお盆を持った金髪天パの男がいそいそと出てくる。俺の前にソーサーとカップを置き、何も言わずに来た方へと戻って行った。なんだこれ、ホットチョコレートか。久々に見たな。
ぬんと座り直した俺がカップを手に取り、中身を見たことを確認した黒川は、足を組み替えてにこりと微笑む。
「私だけ飲むのも悪いからね、いいよ飲みな。話は気楽にしたいもんだ。」
俺的には全く気楽にできる話じゃねぇけど。ずずず。お、美味い。親父がよく作ってくれたっけな。
「1つ目のお前の部屋の死体のことから。まず何故死体が部屋に溢れかえってるの?」
「趣味だ。」
簡素に答えれば黒川はやれやれと言うように肩をすくめる。真っ白なコピー用紙に俺の答えを書き写し、くるりとペンを回した。
「じゃあ次。アレはお前が殺して集めたの?」
「いいや。俺はなにも殺さない。殺すのは俺の役目じゃない。」
ずずり。ホットチョコレートの最後の一滴。このカップの底に残るのってすげぇ嫌い。なんか悔しい感じ。
「役目じゃない?じゃあお前はどうやってあの死体の山を集めたの。」
カップをソーサーに起き、頭の後ろで手を組む。
「紫苑だよ。南館404号室の泉紫苑。あいつが殺して俺がもらう。そういうふうに組んだんだよ。紫苑は殺すだけで充分だが、死体の処理に困ってた。俺は殺したくはないが、死体が欲しい。利害の一致ってやつだよ。ちなみに東館2階フロアのヤツらはみんな紫苑が殺した。俺の部屋には置く場所がないから、まだ各自の部屋に住んでもらってるけどな。」
横髪をくるくる指に巻き付けながらこれまで半年間の経緯を簡素に告げる。死体の存在がバレてるなら、隠し事をしたところで無駄でしかない。
「……絶望的なまでに相性がいいなお前達は。しかしなんでそんなに素直に話すの?なんか面白くないなぁ。」
「隠したってすぐにバレるだろ。それならさっさと吐いた方がいい。で?俺と──紫苑のこと、どうするつもりだ。警察にでも連れていくか?それとも殺すか?どうにしろ俺は現状に満足してるから、どっちでも構わねぇけど。」
「いいやどっちでもない。私は仕事以外で人を殺すのはしたくないからね。お前は見てて面白いから、屋敷に連れていくよ。こんなところじゃあお前も死体集めに限りがあるだろ。」
おかしい。本気で頭おかしい。仕事で人殺してるってなんだよ。見てて面白いって。冗談どころじゃねぇ。こいつホントにヤバい。紫苑も相当頭おかしいと思ったが、黒川は桁外れに頭がおかしい。フレンチの席で女よりも先に座り、細かく折ったナプキンで額の汗を拭き、スープにパンをつけて食い、フルコースで最初にデザート食うような感覚だ。(元)上級家庭の人間としては反吐が出る程嫌なヤツにあたる。庶民的に言えば、口を開けて飯を食う感じだ。
「ヘンな冗談やめろって。屋敷に連れていく?あんた屋敷なんか持ってんの。フーン。まぁ死なないならいいかぁ。あぁでも俺を連れていくなら紫苑も連れていけよ。俺はヒトを殺したくはないんだから。忘れんなよ?そのこと。」

それから幾日か過ぎた。荷物は何も持たず、手ぶらで保護施設を出る。広いグラウンドで砂埃を巻き上げて離陸待機をするヘリコプターと、その操縦士と何か話している黒川の姿。
「おい紫苑、いくぞ。」
「ちょっと待ってや恢、まだ紐結べてへんねん。」
「どんくさいヤツだな。そんなん内側にしまっとけよ。」

保護施設②

紫苑と初めて会った夜はとても涼しかった。もう10月に入り、施設の廊下を裸足で歩くには冷たすぎるくらいだった。保護施設に入って3日目の夜。ナニカないかとナニカを探し回る夜。皆眠っている。そりゃあ2時をとうにすぎて、虫の声さえしない夜更けだ。
静かすぎる。俺のぺたぺたする足音と衣擦れの音、浅い口呼吸が唯一の音になった。与えられた部屋である東館201号室を抜け出し、本館1階の階段を下る。昼間にはガキ共(そりゃ俺も含まれるが俺以外のガキのことだぞ)で騒がしかった食堂ですら物音一つしない。食堂前を通過し、下駄箱と便所が向かい合う入口を歩いて抜ける。真正面の通路左手には図書館。そこも抜けて南館でも見に行ってやろうかと思った矢先。ずるりずるりと、重たいナニカを引き摺って歩く音。二つ先の曲がり角からその音がする。ずるり。嗅ぎなれた匂い。赤くて黒くて茶色くなる匂い。なんの音なのかなんて考える前にわかってしまった。一つ目の曲がり角を通過。二つ目の曲がり角を曲がって通路の中央に立った。そいつは、見られた。と言わんばかりに俺の顔を凝視した。ずっと先の未来で俺の後釜になる(であろう)紫苑だ。だけど俺は、紫苑よりも、紫苑の引き摺っているモノにしか興味がそそられなかった。こいつが殺したのか。その死体はどうするのか。どうする予定もないなら、俺にくれよ。くれなくても、奪い取ってやる。つい嬉しくて唇を噛み締める。これが死体。猫や昆虫とは違う。仕組みが違う、人間の死体。姉の右足と同じ仕組みになっているんだろう。もしソレがまるごと手に入るなら。興奮のあまり、声がおさえきれなかった。
「なぁ、ソレ。ソレさぁ…あんたが殺したのか?」
「俺が引き摺って歩いてるんだから当然だろ。」
そりゃあそうか。だからお前が引きずって歩いてるんだよな。いや俺にしてはバカなこと聞いちまった。仕方ないよ、初めてまるごと手に入るんだと思えば。(もらうことが前提になってるとは、言っちゃいけない。)
俺はそいつに詰め寄って、そいつの手ごと死体の手を握りしめた。緊張と興奮でじっとり汗が滲む。
「ソレ、俺にくれよ。」
あー、言っちゃった。でも願望は言葉にしなくちゃ。父さんも言ってたような気がする。多分。
「欲しいんだよ、俺は。死んだ後のソレが。あんたには価値がなくても、俺には価値があるんだよ。死んだ事実なんかどうでもいい。ただ死体があるならそれでいい。あんたが生き物を殺すように、俺は死体を集めるだけ。ミニカーのコレクションと変わらねぇよ。」
そう。俺にとって死体を集めるのは、ミニカーのコレクションと何ら変わりはない。集めることになんの意義があるかと聞かれても、答えられる答えはない。ただ集めたいから集める、ただそれだけだ。
みたところこいつは、死体を必要とはしてない。さしずめうるさいから殺したくらいの感覚だろ。なら、そうだ。いいコトを思いついた。
「俺と組めよ。死体はもらってやる。」
「……同じこと考えてたぜ。俺は殺すだけで充分。処理に困ってたんだ、超ラッキーって感じ。殺す俺と保管するお前、WIN-WINじゃん。」
「保管はしてねぇけどな。」
ホントに。あればそれでいい。ミニカーのコレクションと違うのは、しっかり管理するかしないか。死体はコレクションじゃないから、順番に並べたり、向きを揃えて置いたりはしない。ただ手に入れたその瞬間のためだけに集めるのだ。
「俺、紫苑って名前。お前は?」
「知らん」
「知らんってお前、名前くらいあるだろ。」
「前の名前使ってたら、身バレするだろ。ヤだよ俺そういうの。有名な家だったから。」
ヤなんだよ名前名乗るのって。今のご時世ネットが発達してやがるから、姉ちゃんが事故で死んで一家四散なんてすーぐ情報が伝わる。3年前のこととは言え、ちょいちょいっと調べれば簡単に出てくる。便利だがイヤな時代になったぜ。
「……いいから。俺そんなの知らねぇし。」
ウソつけこいつ絶対知ってる。いや知られてても構わん。だけど問題なのはソレがどういう話の展開になるか、だ。俺をバカにするか罵るか憐れむか無関心か。どれでもなんでもいい。とにかく俺と家は無関係な程に関わりがないと理解すれば、それで。
「……恢吠夛雀。」
「あ、知ってたわ。それ。お菓子作るのすげぇ上手なトコだろ。うんでもそれ以上は知らない。だから別に何も言わなくていい。」
ほうらなやっぱり。知らないことなんかねぇんだよ。あれだけ派手に報道されりゃあ赤子だって知ってておかしくない。ただ俺は、ふぅんと小さく鼻を鳴らした。どうでもいい。知らないと言うのが嘘なのか本当なのかさえ関係ない。姉は三年前に死んで、家はバラバラになった。ただそれだけのことだ。
だからこんな話はどうでもいい。紫苑の手を解き死体を抱き寄せる。これはもう俺のものだ。誰にも渡しはしない。
「あっそ。で?あんた部屋どこ?」
「南館の404号室。」
「うわ、真逆じゃん。俺東館の201号室。」
「施設長に言って相部屋にしてもらおーぜ。施設長、会ったことあるけど融通ききそうな人だったぜ。」
「そうかぁ?あの人絶対聞かなさそーだけど。」
「いいよ部屋は。それよりあんた早く部屋に戻ったほういいぜ。」
時間はもうすぐ3時。見回りのヤツらがうろつき始める頃。そろそろ戻らないと何をされるかわかったもんじゃない。
「なんでだよ?」
「見回りしてるヤツがいるから。毎日3時前になると本館に急に現れるんだよ。俺一昨日ここに来たけど、こえーよ、あいつら。」
本当に。足音はしない。気配もない。何もする感じもない。なのに、見つかったらおしまいとは、何故かわかっている。
「……ふぅん。その忠告聞いといてやる。じゃーな夛雀。また会おうぜ。」
「恢って呼べよ紫苑。女みてーな名前で嫌いなんだ。またな。」
紫苑が血だらけの寝間着をどうするのかなんてどうでもいい。どうやってこの女を殺したのかですらなんでもいい。
紫苑は通路の突き当たりを左に曲がり、階段を駆け上がっていく。足音が小さくなった頃、俺もそろそろと本館の図書館と食堂を通り過ぎる。人間の死体って、こんなに軽かったか。それともこいつがチビだっただけなのか。東館の階段を駆け上がり、与えられた部屋である201号室の扉を開ける。ドサリと死体を投げ込み、血のついたブラウスをバスタブに放り投げ湯で満たす。そのままシャワーを浴びて寝巻きに着替え、ロクに頭も拭かないでベッドに潜り込んだ。
次の日、昼の休憩時間に紫苑と会った。なぜだか不思議そうな顔をされたが、そんな顔しても昨日の話はしてやんねーよ。

保護施設①

あいつと初めて会ったのは、俺が施設に入れられてから1ヶ月くらい経った日だったと思う。すっかりナニカを殺すのがクセになってた。その時は同室の、腹の立つ喋り方をする威張ってばかりの女の子を殺して、引き摺り歩いた夜だった。どこに捨てようか、それとも適当に放り投げとくか迷っていて、その時におにーさん、もとい恢と出会った。
見られた。とは思ったが、俺の引き摺っているモノを見てあいつは、堪えきれないって感じで唇を噛み締めた。
「なぁ、ソレ。ソレさぁ…あんたが殺したのか?」
「俺が引き摺って歩いてるんだから当然だろ。」
そうじゃなかったらこんなモノ、持ってないだろ。そしたらあいつ、俺に詰め寄って、バカみたいなこと言ったんだ。
「ソレ、俺にくれよ。」
……訳わかんないよな。死体を寄越せって言うんだ。価値なんかありゃしない。死んだって言う事実を欲しがるなんて頭のおかしいヤツだって言ってやった。
「欲しいんだよ、俺は。死んだ後のソレが。あんたには価値がなくても、俺には価値があるんだよ。死んだ事実なんかどうでもいい。ただ死体があるならそれでいい。あんたが生き物を殺すように、俺は死体を集めるだけ。ミニカーのコレクションと変わらねぇよ。」
ミニカーのコレクション。とか抜かしやがって。事実はどうでもいい?価値がある?何言ってんだこいつ。頭おかしいんじゃねぇの。でも、こいつに死体を渡せば処理には困らない。お、これって名案ってやつじゃないの。
「俺と組めよ。死体はもらってやる。」
「……同じこと考えてたぜ。俺は殺すだけで充分。処理に困ってたんだ、超ラッキーって感じ。殺す俺と保管するお前、WIN-WINじゃん。」
「保管はしてねぇけどな。」
いいからその死体を握る手を離せってんだ。俺の手ごと握ってやがる。妙に汗ばんでて、それなのに冷たい。いいとこの坊ちゃんみたいな服着てるクセにヘンな趣味してる。でもまぁ、処理には困らないし、良しとするか。
「俺、紫苑って名前。お前は?」
「知らん」
さらりと。なんてこと言うんだ、名前くらいあるだろーに。
「知らんってお前、名前くらいあるだろ。」
「前の名前使ってたら、身バレするだろ。ヤだよ俺そういうの。有名な家だったから。」
「……いいから。俺そんなの知らねぇし。」
いや、ホントに。なんにも興味はなかった。自由研究でスズメを殺した時から。生きてるものを、命あるものを失うのは容易い。いのちは大事にしましょうなんか抜かしてるクセに、いじめには見て見ぬふりをした担任の先生より、よっぽど俺の方がいのちに対して誠実だとすら思ってる。遅かれ早かれみんな死ぬ。なら、今死んでも同じだろ。知ってることもあとで忘れるなら、知らなくても問題ないだろ。
「……恢吠夛雀。」
「あ、知ってたわ。それ。お菓子作るのすげぇ上手なトコだろ。うんでもそれ以上は知らない。だから別に何も言わなくていい。」
カイハイ。カイハイタチエ。俺も知ってる。パティシエ家系で有名な名前。3年前に飛行機事故でここの次女が死んだって報道されてた。こいつ、そこの子か。でもあいつの表情は対して変わらなかった。知らないと言っても同じ顔をしてただろう。それか、施設に来た原因を探られずに安心した顔をしたかもしれない。どうだか。こいつ、考えてることがサッパリわかんない。
何も考えていないし何か考えている。よくわかんない表情。そんな表情を崩して、こいつは俺の手から死体を奪い取った。まるでダンスをするような手つきで死体を抱き寄せる。そしてなんでもない顔で話を続けた。
「あっそ。で?あんた部屋どこ?」
「南館の404号室。」
「うわ、真逆じゃん。俺東館の201号室。」
「施設長に言って相部屋にしてもらおーぜ。施設長、会ったことあるけど融通ききそうな人だったぜ。」
「そうかぁ?あの人絶対聞かなさそーだけど。」
ウーン、どうだか。施設長は複数いるとか噂があるけど、あながちウソじゃないかもな。
「いいよ部屋は。それよりあんた早く部屋に戻ったほういいぜ。」
「なんでだよ?」
「見回りしてるヤツがいるから。毎日3時前になると本館に急に現れるんだよ。俺一昨日ここに来たけど、こえーよ、あいつら。」
見回り……?聞いたことないな。一昨日来たばかりなのにそんなこと知ってるのか。しかも本館。お前、東館の部屋だって言ってただろ。やっぱおかしいよこいつ。
「……ふぅん。その忠告聞いといてやる。じゃーな夛雀。また会おうぜ。」
「恢って呼べよ紫苑。女みてーな名前で嫌いなんだ。またな。」
南館への階段まで恢は俺を見つめたままだった。死体を抱いて、お坊ちゃんみたいな服を血だらけにして、俺が階段を駆け上がる音を聞くまで、多分ずっとそこにいたと思う。俺は階段を上がって部屋まで戻ったから、その後どうなったのかはわからない。けれど起きて次の日、俺が殺した女の子の話題は一切なかったことと、昼間の自由時間に会った恢の服は昨夜と変わらなかったこと、その2つはやっぱり、気持ち悪いなと感じた。