病院①

お母さんとマトモな会話をしたこと。友夜の顔を見たこと。最後の28分前が、私の記憶に残っている出来事だった。私とお母さんは出掛けると言い、友夜とお父さんに声を掛けた。誰からの返事はなかったが、ただ一つ、水を叩き浴槽を蹴る音が、廊下の奥にあるお風呂場から聞こえてきただけであった。私は忘れ物をしたとウソをついて洗面所へ向かい、お母さんのお気に入りの髪留めをポケットに忍ばせ、お風呂場を覗き見た。冷たい視線を浴槽に向け、右手は──友夜の頭を押さえつけている。苦しそうにもがき、ガンガンと浴槽を蹴る足を左手が抓る。「あぁ痛そう。苦しそう。僕がかわってあげたい。けれどお母さんが待っている。ごめんね友夜、いつか友夜を救ってあげるから。」一瞬だけ頭を上げ、私の目を見た友夜の顔は忘れない。いいえ、きっと忘れられない。ごめんなさい。私、今でもお父さんのことは止められないわ。だって、お母さんが待っているもの。携帯を見て待つのでもなく、ただ洗面所へ向かっていった私の方をずっと見ていたもの。あぁ、お母さんとお父さんは、急に仲が悪くなって、私と友夜も引き離された。私たちは一緒でなきゃいけないのに。二人で一つなのに。私は友夜がいればそれでよかった。きっとお母さんとお父さんも、お互いがいれば幸せなんだと思っていたの。本当よ。どうして仲が悪くなったのかは、大きくなった今ならわかるわ。だってお父さんったら、知らない女の人の匂いを纏っていたもの。きっとその人が原因よ。その人さえいなければ、私と友夜は一緒にいられたのに。いいえ、今更こんなことを言っても仕方ないわ。そして私は、友夜にも、お父さんにも、……誰にも何も言えずに、お母さんに手を引かれて玄関を出た。「いってきます。」って、ちゃんと言ったのよ。ええ、私たちの家は大通りに面していて、日夜交通の騒音が絶えなかった。大きなトラックも走っていたし、自転車もたくさん通ったわ。忘れもしない乗用車の運転手。古い車よ、白色のセルシオなんて。ここでは珍しい福岡554め4267。なぜだか鮮明に思い出せるわ。お昼なのに疲れた顔をして、ボーダーのワイシャツを着ていて、臙脂色のネクタイを雑に緩めていて、短く切りそろえた髪はボサボサだった。ボーっとしていたのでしょうね。青信号を渡る私たちを見た瞬間、どっと汗が噴き出るのがわかったわ。それからタイヤと地面が擦れるゴムくさい匂いと、ハンドブレーキも引いたのでしょう。急カーブを曲がるような鋭い音が耳を支配したわ。「テレビドラマと全然音が違う。」なんて思っていたのよ、私。マヌケでしょう?笑ってちょうだい。そんなことを思う時間があれば、お母さんを突き飛ばすくらい出来たでしょうに。えぇ、結果として私はその乗用車に轢かれた。死にはしなかったわ。だって今、ここにいて、生きているもの。でもそうね。乗用車はギリギリでお母さんを避けれたけれど、私のことまでは避けられなかった。「この車、僕に当たる。」って確信して、どこに当たったのかは、そこまで意識を保てなかったわ。目の前が真っ暗になって、思うように動けなかった。──少し休憩、お茶でもしましょう。こんな話、休みながらでないと出来やしないわ。