閉鎖空間①

過去のことは話さない。話したくない。思い出したくない。思い出せるようなところにしまってはいない。
そんなことは調べればすぐにわかる。ならばわざわざ不幸自慢をするように、話すべきことではないだろう。話したところで何がわかる。わかった気になって、慈悲深いフリをして、俺の弱みにつけ込んでくる。そういうやつは、大嫌いだ。俺を捻じ曲げるやつも、力でなんとかしようってのも。だから陽は嫌いだ。俺を捻じ曲げ、抵抗出来ないと知りながら、軟弱な力で封じる。でも、そう、一番嫌いなのは、暴力と、暴力を振るうやつ。けれど、俺はそれに逆らえない。逆らってはいけない。もっと恐ろしいものが来るから。俺をめちゃくちゃにしてしまう、俺をなにか別のものに変えてしまうものがある。例えば、そう、俺が暴力に対して抵抗出来ないようになってしまったこと。それと、父親に似た背格好の男を見ると、足がすくんで動けなくなること。俺の罪は、そんな男の子供として生まれたこと。父親の罪は、そんなふうに俺を変えてしまったこと。ただあくびをしただけで殴られる。腹が鳴れば怒鳴られる。到底飯とは言えないものを食べられなかった時なんかは、そりゃあもうひどいもので、幾日も口に出来るものを得られなかった。だが、悪いのは俺だ。罪は一つでも、悪行は全て俺にある。全部が気に入らなかったんだろう。俺は、……俺は、本当は許されたかった。
──と、彼は……ヰサラは、煉河友夜は、屋敷に引き取られてすぐ、離れの封じられた部屋に懺悔していた。……なんてな。

俺はごくごく普通の家庭に生まれた。何が悪かったわけでもない。俺が悪かったわけでも、結夜が悪かったわけでもない。だだ、両親の絆に亀裂が入っていた。悪かったのは、恐らくそれだけだろう。母親は結夜ばかりを贔屓する。可愛い洋服を着せる。市販で気に入るものがなければ一から作る。栄養バランスの整った食事を与える。勿論デザートまで忘れない。伸ばした髪を毎日丁寧にケアする。清潔なベッドで絵本を読み聞かせながら星の夢を見て眠る。もはや母親の目に、俺と父親は映っていなかった。何度も幼稚園からの電話が鳴り響く。友夜くんはお休みですか。お元気ですか。様子はどうですか。明日は来られそうですか。何度も何度も母親は電話に怒鳴りつける。私には結夜だけです。忌々しいその名を呼ばないで。私に電話をかけないで。汚物と暴力に塗れた2階。きらびやかでかわいらしい空間の広がる1階。何が違ったのか。子を想う心が違った。
結夜と母親が二度と戻らない外出をする当日。なんの機嫌を損ねたか。俺は湯船に頭を突っ込まれ、押さえつけられていた。一瞬頭をあげた時、俺をみていた結夜の顔は忘れない。純真無垢で清廉潔白。同じ顔とは思えない。心配そうに覗き見る可愛い洋服。その手には、もう何日も顔を見ていない母親のお気に入りの髪留めが握られていた。なんて目で見てしまったんだと俺は後悔している。浴槽を蹴ると足を抓られた。苦しいともがけば何度も罵声を浴びせられた。どうしてこの男は俺にこんなことをするのかなんてわかるわけがなかった。ただ俺が悪いんだろうなとは思った。玄関のドアの閉まる音が微かに聞こえた気がした。……それからどのくらい時間が経ったのかわからない。気が済んだのか父親は俺の頭を押さえるのをやめ、濡れた服を着替えてどこかへ出かけていった。ぼとぼとになった服を脱ぎ、ぎゅっと絞って広げて椅子の背にかける。適当に生乾きのにおいがする服に着替える。父親が使ったあとのタオルで頭を拭いて、冷蔵庫を開ける。……何も入っていない。いや嘘だ。入ってはいる。入ってはいるが、おそよ俺の食う物はなかった。父親の好きなソーセージとビール。惣菜が少し。ここ数日、ろくにものを食ってない。もはや腹が減ってるのかどうかすらわからない。